旧立川番所書院(建造物・重文)
書院は前身である立川下名口番所(たじかわしもみょうくちばんしょ、立川関)までさかのぼり、『日本後紀』によれば延暦16年(797)に街道が整備され、丹治川すなわち立川(たじかわ)に駅が置かれたとある。これより都と土佐国府をむすぶ官道の要衝として立川駅は利用されていた。官道を再整備して土佐藩主参勤交代の通路としたのは六代藩主 豊隆公の享保3年(1718)からで、立川番所は土佐路最後の藩主の宿所となった。立川番所は参勤交代時の本陣として重要視され、岩佐口番所(北川村)、池川口番所(仁淀川町)とならんで...
書院は前身である立川下名口番所(たじかわしもみょうくちばんしょ、立川関)までさかのぼり、『日本後紀』によれば延暦16年(797)に街道が整備され、丹治川すなわち立川(たじかわ)に駅が置かれたとある。これより都と土佐国府をむすぶ官道の要衝として立川駅は利用されていた。官道を再整備して土佐藩主参勤交代の通路としたのは六代藩主 豊隆公の享保3年(1718)からで、立川番所は土佐路最後の藩主の宿所となった。立川番所は参勤交代時の本陣として重要視され、岩佐口番所(北川村)、池川口番所(仁淀川町)とならんで...